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ちゃと・まっし~ぐ~ら~!

バスキングライフ

ロンドンでは地下鉄の通路などで、ギターや民族楽器を演奏したり
弾き語りしている人を毎日どこかで見る。
もちろん公には禁止されているのだが、いやでも耳にはいる
いろいろな音の中には、はっとする新鮮さを感じたり
その時の心情に染み渡るものも確かにある。
だいたいは夕方から夜半にかけてよく出会う光景だが、この間
朝の通勤時にギターを持っている、珍しく朝型のお兄さんがいた。
これから仕事かという憂鬱とあきらめが支配する
どんよりした人波の中で彼を気にかける人は、気の毒だが
やはりほとんどいない。
私もたいがい朝の不機嫌な顔でその横を通り過ぎる一人だったはず。
ある朝、そのお兄さんは明るく弾むロックを奏でている途中
澱む空気も気にせず、弾みついでに突然「エッブリバディ!」と叫び
私を含む何人かの通行人は苦笑を禁じざるを得なかった。
普通でもだらしない運行状況の地下鉄に嫌気がさすラッシュ時に
朝から強烈に「さあ、みなさんごいっしょにっ!」なんて
カンベンしてくれよと思いながらも、首都とはいっても、ただ首都として
張り詰めているだけではないロンドンを感じさせてくれた。

***

夕方の地下鉄では、どこの駅からいつの間に乗り込んだのか
いつも気がつかないアコーディオン弾きの一群に会うことがあるが
これには少し強迫観念があって苦手である。
車内で座っている時にこの一群が乗ってくると、派手なのは音だけで
実はさして難しくもない数小節を疲れた耳にちょこっと流しただけで
お金を集めに来る。
最初の頃こそ、これも彼らの生活なのかなと思わないでもなかったが
彼らの目の光というか仕草には、かすかに濁りが感じられることもあり
仕事の後で疲れている時には敬遠したくなる。
それよりは、そんなに期待している風情でもなく駅の通路のすみっこで
ギターをつまびいている人の中に、時間が許すならば
しばし聞き惚れていたくなるような音がある。

***

土日の昼間に主人とたまに立ち寄るオックスフォードストリートの
レコード屋付近に、バイオリンを持って立っている一人のおじさんを
見たことが何度かある。
70才くらいに見えるそのおじさん、~もうおじいさんの域であるが~
最初に彼に気がついたのはロンドンに住み始めた年の初夏だったと思う。
そのおじさんが気になったのは、彼はバイオリンを持ちながらも
ほとんど何も弾いていなかったからである。
すぐそばの停留所でバスを待ちながら、私はちらちらとおじさんを
見ていた。
彼はバイオリンを弾く気力どころか、もう立っていること自体が
つらそうに見えるばかりか、気がつくと、彼のズボンのベルトあたりと
地面をつっかえ棒で支えていた。
その心もとない風情に少なからぬ衝撃があった。
バスを待つ私は「おじさん、何か弾いてよ」と祈るような気持ちでいた。
もし彼が少しでも何か弾いてくれたら、小銭を入れてあげたかったが
彼が曲を弾かないうちに小銭を差し出してはいけないと思った。
二十分ほどの間、おじさんは何か放心したような面持ちでバイオリンを
持って立っていただけで、結局バスが来て乗ってしまったことが無性に
心残りだった。
それからしばらくたったある日、乗ったバスの信号待ちの最中に窓から
見えたおじさんは憑かれたようにバイオリンを弾いていた。
今、ここで降りられない私に代わって、少しの気持ちをおじさんに
差し出してくれる人が他に誰かいないかと強く思ったが、確かめるすべも
時間もないまま、バスは渋滞のロンドンをのろのろ進んで行った。




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